天守内部

複数階にあるもの


通し柱

松江城の国宝の決め手の一つに特徴的な構造がある。
全国で同時期に多くの城が築城されていた中で松江城の築城も始まり、木材が不足していた。そのため姫路城の心柱のような大きな柱を作る木が手に入らなかったため、心柱を使わない2階分の短い通し柱を配置して天守を支える構造となっている。天守の柱308本の柱のうち96本が通し柱


包板

天守を支える柱には、一面だけ、あるいは二面、三面、四面に板を張って鎹(かすがい)や鉄輪(かなわ)で留められている物がある。この柱を覆う板を「包板(つつみいた)」と呼ぶ。
天守にある総数308本の柱のうち130本に施してあり、割れ隠しなど不良材の体裁を整えるためのものと考えられている。


石落とし

石垣に近づく敵を鉄砲や石などで攻撃するために設けられた穴で、松江城天守には2階の四隅と東・西・北壁、附櫓の南側に設けられている。


格子窓(武者窓)

窓に太い格子を縦に取り付け、外から内部が見えづらくする役割を持つ。
外には突き上げ戸がついている。
格子は鉄砲を広角に撃てるように◇型に取り付けられている。


狭間(鉄砲狭間・矢狭間)

松江城天守には侵入してきた敵を狙う狭間(さま / はざま)がある。
天守各階・四方に、鉄砲や矢を放つために設けられている。
2階の狭間には石垣を登ってくる敵を狙う角度の狭間もある。
天守4階には松江城内で唯一△の形の狭間が作られている。


桐の階段

板の厚さ約10センチメートル、階段の幅1.6メートルで1階から4階の各階に設けてある。防火・防腐などのために桐材を使ったと考えられる。
4階から5階への階段はクリ材が多く使われている。


階段の引き戸

1階と4階の階段開口部は、水平の引き戸を引き出すと開口部を塞ぐ構造になっている。戸締まりのための管理用、あるいは籠城用のものと考えられている。


5階

天狗の間

天守最上階は天狗の間と呼ばれ、360度、松江の町を見渡すことができる。
5階の柱は綺麗に製材され、太さも均一に揃えられている。また、敷居の痕跡や鴨居が残されており建具があったと考えられている。

国宝指定書

天守5階には国宝指定の証である指定書の写しが展示されている。原本は、国宝に附指定された祈祷札2枚、鎮宅祈祷札4枚、鎮物3点とともに松江歴史館に収蔵されている。

4階

梁の上から立ち上がる柱

2階分の通し柱の配置と同様に、柱と梁を逆T字に組み合わせるなど短い柱を巧みに利用し、建物の中心に荷重がかからないように工夫が施されている。4階でその様子が確認できる。

4階に至る階段の二種類の上り口

4階へ至る階段の上り口には装飾的な部材が用いられており、その横には藩主に従う小姓用とも考えられる上り口が別に設けられている。

箱便所

西側大破風の内側を利用して藩主用の箱便所がおかれていたといわれている。天守内に便所が設けられていたのは珍しいという。

4階の唐破風の痕跡

松江城天守を描いた古い絵図(出雲国松江城絵図など)には、外観4層に「唐破風」が描かれている。現在の天守には唐破風はないが、4階の東西両面には、唐破風の痕跡と考えられる「貫跡」が残っている。

3階

2階分を貫く通し柱

2階から3階に上がる階段が、松江城の特徴である通し柱が2階分を貫いていることを見られる唯一の場所。

花頭窓

質実な造りの松江城天守において、3階の南北張出部にある花頭窓は外観上のアクセントとして風格を与えている。花頭窓自体に実用性はなく装飾を目的としたものである。

廃城令をつたえる書

明治4年(1872)1月、松江藩は松江城を廃城したいとの伺いを太政官に提出し、伺いが認められ廃城と決定したことを松江藩庁が領内に知らせる書状。廃城の申し立ては「火器類の高性能化と兵制の変化が、かつては必要であって城郭も意味を無くし贅物となった」という理由であった。

2階

太鼓櫓の太鼓

二之丸にあった太鼓櫓で使用されていた太鼓。明治に太鼓櫓を破却する際に見つかったものである。

2階の千鳥破風の痕跡

松江城天守を描いた古い絵図には、外観2層に「千鳥破風」が描かれている。現在の天守には千鳥破風はないが、2階の東面には、千鳥破風の痕跡と考えられる「貫跡」が残っている。

1階

天守最大柱

地階~1階の東西2本の通し柱は包板を持たない松江城天守最大の柱で、天守国宝化の決め手となった祈祷札もこの柱の地階部分に打ち付けられていた。天守の軸組構造の中で最も大切な柱として、重要視されていたことがわかる。

彫込み番付

番付は、木造建築で建物を組み立てるために予め部材につける符号。松江城天守の番付には彫込と墨書の二種類があり、彫込番付は地階から2階で柱の根元等に刻まれているのを9カ所確認することができる。

月山富田城の材料を再利用

堀尾氏が松江城の前に拠点とした月山富田城から運ばれてきたと考えられている材木。昭和25年まで松江城の1階床の梁を支えていた。刻まれた富の文字を囲む形は築城主・堀尾家の家紋の分銅紋とされる。

附櫓・地階

附櫓:天守入り口付近の防備を固め、死角をなくすための櫓
地階:石垣に囲まれた階で、籠城に備えて塩や物資などを保管していたため塩蔵とも呼ばれる

祈祷札(国宝)

平成24年(2012)に再発見された、松江城の築城年の記された祈祷札。
「慶長拾六年」の記載があり、松江城天守の完成時期を示す貴重な一次資料。
天守地階の柱に掲げられていたことが判明した。
天守内にはレプリカが展示されている。

井戸

現存天守では唯一、天守内にある井戸。かつて24mの深さがあった。
現在は半分が埋められている。
名古屋城や浜松城にも天守内に井戸があったが、そのうち現存しているのは松江城のみ。

石打棚

附櫓入り口上部と地階の南側に石打棚がある。天守に侵入してきた敵を鉄砲などで狙う際、足下を安定させるために石垣の上に設けられた棚状の台で、天守の防御力を高めている。